体験談 Vol. 10(前編)

体験談 Vol. 10(前編)

私は4歳のときにpilocytic astrocytoma(毛様細胞性星細胞腫)を発症し、今年2025年で50歳を迎える患者です。

腫瘍はまだ脳幹付近に残存しています。

同じような症状で苦しんでいる患者さん、ご家族、支援者の方々のご参考になればと思い、体験談を投稿いたします。

第一部は、2001年に小児がんの支援を行う大阪のNPO法人「エスビューロー」の機関誌に掲載された文章を簡略化したものです。25歳のときに書いた文章ですが、今は当時のみずみずしい記憶が失われてしまっているため、そのまま掲載しました。


第二部は、私が現在感じている脳腫瘍の晩期合併症について、受診や診断書作成のためにその都度書き溜めてきたものです。

33歳時の再発による3年間の抗がん剤治療、39歳時の水頭症悪化による3度目のシャント手術などを経て、25歳当時よりもかなり症状が悪化していると感じています。

皆さんの中にも、こうした症状のある方はいらっしゃるでしょうか。

脳腫瘍の後遺症は、周囲の人はもちろん、本人にとってもわかりづらく、伝わりにくいものが多いので、言語化することで共有できれば幸いです。

第一部 今までの歩み

今日この原稿を書いているのは、2000年の1231日です。

僕は1975310日に生まれたから、20世紀の最後の4分の1を生きてきたことになります。

その歩みを、今ここにまとめます。

発病当時のことはあまり覚えていませんが、母から断片的に聞いた話によると、最初に僕の異変に気づいたのは幼稚園の先生でした。

4歳のときだったそうです。

くつ箱にくつを入れるとき、背伸びした足が震えていたというのです。

僕は歩くときに手をつなぐことが多く、動作も遅かったため、当初は何か心因的な反応だと思われていたようです。

小児科を受診したときも、最初は「発達」や「家庭環境」の問題かもしれないと考えられ、療育教室のような場所を紹介されたと聞いています。


この頃の記憶としては、おもらしをして母におしりをたたかれた場面があります。

別の日には、おもらしをしてパンツを換えてもらっている最中に病院から電話がかかってきて、母が深刻に話し込んでいる様子をよく覚えています。それ以降、母はおもらしをしても絶対にたたかなくなりました。また、病院にある絨毯敷きの部屋で、とても優しい先生と遊んだ記憶もありますが、先生と母が隅のほうで僕を眺めていたので、わずかな違和感がありました。

この部屋には23回通ったと思いますが、とても楽しく、次はいつ行けるのだろうと楽しみにしていたところ、そのまま行かなくなりました。その後、脳神経外科に回されたと聞いています。


CT
スキャンの結果、小脳に腫瘍が見つかりました。

197910月から翌年4月まで入院し、その間に2回の手術を受けました。

入院で味わった恐怖と苦痛を今の僕はうまく表現できません。もし適切な言葉を持っていたら、子供にとっての痛みや恐怖の大きさをもっと伝えられるのにと、歯がゆく感じます。子供は大人と違い、体全体で痛みや恐怖を受け止めていると思います。

治療の苦痛に泣き叫ぶ子供の姿は、「子供だからしょうがない」のではなく、ありのままにその大きさの恐怖と苦痛を表現しているのです。

今でも、血だらけになりながら押さえつけられ何本も注射を打たれたこと、動かないようにベッドに縛られて苦しかったこと、手術の前の麻酔の甘いにおいなど、鮮明に思い出されます。


4
月に退院した僕は、幼稚園の年少組をもう一度やることになりました。

つまり、同学年の子たちより1年遅れて義務教育を歩むことになったのです。

僕は小脳に障害があるため、運動は周りの子よりかなり苦手でした。

4歳のとき、幼稚園でみんなが音楽に合わせて「けんけん跳び」をしているとき、自分だけできずに絶望的な気分になったのを覚えています。

かけっこではいつもビリで、幼稚園児ながらそれを痛感していました。

運動会のあと、友達に「たかちゃんがいるから白組負けたんだ!」と言われたことも、はっきりと覚えています。

男の子にとって、運動が下手だということは、大人の想像を超えるほど劣等感をもたらすものなのです。


5
歳の頃、病院で再入院が必要だと言われ、母に負ぶさりながら泣き出した記憶がありますが、結局は直前で取りやめになりました。


6
歳のとき、頭の前の部分が激しく痛み、嘔吐を繰り返すようになりました。

病院でCTを撮ると頭に水が溜まっているとのことでした。

脳腫瘍になると、腫瘍が脳脊髄液の循環路を塞ぐため、脳室に水が溜まりやすいのです。すぐに脳室から腹腔まで管を入れるV-Pシャントの手術を受けました。

当時は薬の副作用でぶくぶく太り、退院後しばらくは車椅子を使っていました。


小学校に入学すると、体育の時間が非常に苦痛でした。

始まる前から気持ちが悪くなり、終わるまで不安と緊張で一杯でした。この感覚は高校を卒業するまでの間、体育があるたびに続きました。

加えて、水泳の時間では、V-Pシャントの手術痕がちょうどおへその上にあって、周りから見られないかいつも気が気ではありませんでした。

他の子どもから「きもちわり~」とか「さわらせて」とか言われると、何だか自分が崩れてしまいそうな感覚に襲われました。


小学2年生の秋に2カ月間入院することになりました。

定期検査で取り残した腫瘍が大きくなっていたからです。自覚症状はありませんでしたが、12時間の大手術を受けました。
その後10年間は入院せず、半年に一度程度CT検査で経過観察をしていました。

小学校3年生くらいからは点滴への恐怖もだいぶ和らいだように思います。


小学5年生の頃、「自分は学年で一番劣った存在だ」と思い悩み、毎晩のように独りで泣いていました。

周りからは「小脳腫瘍なので運動はできないけど、勉強は普通にできる」と言われていたため、「運動が苦手なら勉強を誰よりも頑張らなくては」と一途に考えるようになりました。

中学に入ると、その思いがさらに強まり、猛勉強するようになりました。


高校入試では受験勉強に多くの時間を費やしましたが、希望した公立高校には落ちてしまい、私立の男子校へ進学しました。

この学校は学級崩壊ともいえる状況で、僕は毎日緊張しながらいじめの標的にならないよう必死に過ごしていました。

結局3年間通いましたが、クラスメイトのほとんどが敵に見えていたのを覚えています。

制服の内ポケットにはいつもナイフを忍ばせていました。


高校3年の春、CT検査で腫瘍が大きくなっており、夏休みに入院して手術をしなければならないと告げられました。

幼いころの治療が大きな恐怖と共に心の中に焼き付いていたので、そのことが数ヵ月後に確実に起こると思うと、とても耐えられない気持ちでした。

受験勉強もしなければならないし、やりきれない思いでいっぱいでした。

こんな苦しみの日々の中で、たどり着いた結論は「自分への執着を絶つ」ことでした。

これからは同じように病気や障害で苦しむ人のために尽くす生き方をしたい、と決心し、その一歩として受験勉強に集中することにしました。

夏の入院でも手術後1週間を除いてはほぼ勉強をしていたものの、納得がいかず受験せずに浪人する道を選びました。


浪人時代は予備校に通わず、自宅で11618時間勉強を続けました。

今から振り返ると非効率ですが、当時の自分には「がんばる」しか選択肢がなかったのです。

結果、山形大学の理学部生物学科に入学しました。本当は国立大学の医学部を狙っていましたが届きませんでした。

親の手前もあり、生物学を学んで医学研究に携われるような知識を身につけたいと思ったのです。


大学1年の秋、手術では危険な部分に腫瘍が残っているということで、ガンマナイフという最新の治療を受けました。

当時はまだ保険適用外で130万円くらいかかりました。

頭を固定するために頭蓋骨にボルトをねじ込まねばならず、痛みで気が遠くなってしまいました。


大学時代にインターネットができ、初めて自分の病気について詳しく調べられるようになりました。

ショックな記述に出会うこともありましたが、自分を納得させるためには必要な作業だったのだと思います。


大学卒業後、大阪大学の医科学専攻修士課程に進学しました。

入学式翌日に実家のある東京に呼び戻され入院しました。MRI検査の結果脳室に水が溜まっていたからです。

数日後に手術を受け、3週間ほどで退院しました。


医科学専攻では夏まで医学一般の講義を受けたのち精神医学の研究室に入り、自閉症に関する研究を始めました。

9月には、まだ残っている腫瘍に対して再度ガンマナイフ治療を受けました。

その頃は保険適用になり、麻酔も工夫されて痛みは前回ほどではありませんでした。

1年以上が経過しましたが、まだ腫瘍は残っており、3回以上のガンマナイフはできないということで経過観察を続けています。

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