次女はるかの体調に異変が起きたのは、6歳の時でした。朝起きると「頭が痛い」「気持ちが悪い」と訴えるものの、日中は元気に過ごす時期が続いていました。幼稚園の先生から「転ぶことが増えた」と指摘されたのもこの頃。次第に、はるかが右足を引きずっていることに気付きました。しかも、右手に力が入らない様子。「おかしい」胸がざわつきました。
総合病院へ連れて行ったところ、脳幹グリオーマ(DIPG)と診断され、余命半年と宣告されました。
最初はなかなか、病気を受け入れられませんでした。有効な治療方法はなく、在宅療養で、家族で過ごせる時間を大切にすることを医師にすすめられましたが、「あきらめなさい」といわれたようで、悔しくて仕方ありませんでした。激しく動揺し、いらだちと絶望感に襲われました。自ら治療法を探そうと、全国を駆け回ったり、わらにもすがる思いで、あらゆる手段を尽くしました。一分一秒でも長く生きて、そばにいてほしいと願っていました。
「お泊まりに連れて行ってほしい」。それがはるかの最後の望みになりました。その願いをかなえようと、家族で千葉県へ旅行に行きました。時間が許す限り家族との思い出を作り、はるかの喜ぶ顔が見たかったからです。
「頭が痛い」。旅行からの帰り道、はるかは訴えました。翌日、病院へ行くと、そのまま入院。帰宅して間もなく、医師から「容体が急変し、呼吸が止まった」と電話で告げられました。人工呼吸器で延命措置をしたが、意識が戻ることはありませんでした。意識が戻らないまま、死に一歩一歩近づくにつれ、少しずつ弱っていきました。これ以上、幼い体を縛りつけたくないと、人工呼吸器を外すことを決断したのは、倒れてから約2週間後のことでした。今振り返ると、医療従事者の寄り添いがあったからこそ、(外すことは)間違いではないと判断できたのだと思います。
3歳上の長女とはるかには、病名はもちろん、死が迫っていることを伏せ、「頭におできができたんだよ」とだけ伝えていました。服薬の影響で腫れてしまった顔を「面白い」と笑い、右手にまひが出ても、左手で上手に箸を使えるようにもなりました。亡くなるその時まで常に生きる楽しみを見つけ、成長し続けていたのです。
はるかと過ごした日々が後年、子どもの成長や楽しみを支える施設である「こどもホスピス」を作りたいという考えにつながりました。
「ホスピス」と聞くと、治る見込みのない人が最後に死を待つ場所、というイメージが強く、わが子を送り出すことに抵抗を覚える親も多いかもしれません。しかし「こどもホスピス」は、子どもたちの「生」を支える施設なのです。患児の多くは、入院や通院のために家族や友達と引き離され、通学や習い事、旅行や遊びなども思うようにできなくなってしまいます。「こどもホスピス」は、病気の子どもたちに楽しみや学びの場を提供し、実り多い生活を送ってもらうための「お家」なのです。
告知後、病に苦しむ子どもに向き合うことも、親にとっては並大抵の苦労ではありません。「こどもホスピス」は親たちが心身のケアを受け、休息する施設でもあります。
「ちゃんとやれるか、試されているのかな。」と感じながら、娘に導かれる形で、「夢」の実現まであと一歩というところです
(田川 尚登、副理事長)
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